「あゝ、荒野」から一年
サンクスギビングが終わると一挙に年末に向けてのラストスパートが始まるといった趣のアメリカですが、サンクスギビングと言えば去年は親戚が集まるディナーをバックれて日本に行っていたことを思い出します。
そう、松本潤演じる新宿新次を観に。
「あゝ、荒野」は後に「革命的」と称されていたようですが(「演劇ぶっく」の松本潤インタビュー参照)
思うに、なぜそんなにも革命的だったかと言えば、ひとえに皆がアイドル・松本潤のもつ役者としての技量を甘く見積もっていたところに、あの体当たりの新次を見せつけられてその神々しさに開眼したからじゃないのかなぁ…と。
もちろん出演者のみならず、脚本、演出、照明、装置、どれをとっても抜きん出ていて、全体が革命的だったともいえます。
ま、諸説あると思いますが。
私自身は舞台の松本潤を観るのはこの舞台が初めてで。
もともとドラマや映画での繊細な心理描写を目でする部分をものすごく評価していたわけですが、あまりに松本潤にのめり込みすぎて自分の評価が溺愛ゆえの加点甘々なもののような気もして、実は少し分からなくなっていたというのが本音。
なにしろ潤くんのドラマを観る時、どんなに頑張っても客観視できなくなってドラマをドラマとして俯瞰で楽しめないっていう位ですから、おかん的視点でなんでもポジティブに評価してないか…?と。
なので舞台というごまかしの効かない場所でしっかりと観て確認したいという思いがありました。
結果、表現者・松本潤の役者としての成長をきちんと目撃することができました。
結構辛口に観ていた自分に驚きつつ、それを置いても素晴らしい演技で完全に魅了されたことは昨年のエントリで記載済みなのでよろしかったら遡ってご覧頂ければと思います。
普段は頭脳派で論理的に役のキャラクターを考えて組み立てていく潤くんが、そういうものをとりあえずうっちゃって感覚的に役を捉えたという舞台。
稽古中のレギュラー番組を見る限り、ボクサーの役を演るためにボクシングを習い、身体を体脂肪率が一桁になる程に絞り、身体で役を理解することに夢中になっていた様に見受けられました。
もちろんそれで頭が空っぽになるような人ではないでしょうけど、ボクシングを通して呼吸をする様に松本潤の躰の中に新宿新次が魂を芽吹かせたんだろうな、と思えるくらい、舞台の上の松本潤は潤くんであって潤くんではありませんでしたね。
そこに生きていたのは新宿新次、その人でしかなかったのです。
なぜそこまで言い切れるのか?
だってその数カ月前に嵐のライブでキラッキラに輝く潤くんを目撃して(遠かったけど)その記憶がまだ冷めやらぬままだったんです。
同じように照明を浴びていても全く纏う雰囲気が違うんですから。
あれは松本潤の身体を借りた新宿新次でした。
そんな強烈な印象を残した新次でしたが、舞台の楽と共に松本潤の新宿新次は消え、舞台は伝説となりました。
あの新次はあの時の松本潤にしか出来ない、それほど希少価値の高いものだったと思います。
あれから約一年経っても尚、その姿が鮮明に脳裏をよぎります。
「俺も世界も、全てまぼろし!」
そう叫んだ新次の言葉通り、「あゝ、荒野」の世界はまるで幻かのように儚くも消え去ってしまいました。
あれ程に時代も場所も引き戻してしまう力を持った舞台はそうそうお目にかかれるものではありません。
虚構の中のリアリティ。
それが感じられたのは演者一人ひとりがその設定を肌で理解し舞台上で呼吸していたからだと思います。
「あゝ、荒野」ーー 日本演劇史に名を残すに値する素晴らしい作品でした。
全出演者&スタッフに改めて拍手を送ります。
そろそろDVD出しませんかねぇ…。
伝説にしておきたいのは理解しますけど…。