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松本潤担ブログ @ニューヨーク830番地

遠くても。同じ空の下、繋がってるよ、とあなたが言ってくれるから。

「陽だまりの彼女」メモリアルBox

むはーーーーーっ!堪能しました!!!

改めて。

ビジュアルコメンタリーでもその他の特典映像でも、作り手のみなさんが本当に細部に渡って愛情を注いでこの作品作りに取り組んでおられた事がひしひしと伝わって来ました。

「素敵じゃないか」の歌詞について、私が深読みし過ぎかな?と今年の1月に書いていたことを三木監督だったかな?が言及されていて、あー、やっぱり同じページにいたね♪ と嬉しくなりました。

(英語の表現で意思の疎通が取れている時にWe are on the same pageと言います。)

改めて観ると、真緒がすこぶるかわいい。(主にビジュアル的に。)

映画館で観た時もかわいいなあーとは思ったけど。

このビジュアルのかわいさのお陰で、全く自己中でしかない真緒の浩介への思いもまるっと全肯定して受け入れざるを得ないって気がします。

【以下、ネタバレを含みますのでまだ映画をご覧になっていない方はご注意ください。】

実は映画鑑賞直後、私は真緒のあの自己中心的な行動がどうにも受け入れられませんでした。

真緒が浩介を好きで側に居たかったという気持ちは確かに純粋で尊いものであったけれど。

限りなく一方的な、恋心。

そしてその気持ちだけを元に突っ走り、浩介や両親を振り回した挙句に猫の習性だからと勝手に姿を消そうとし、記憶が消えてしまうのも承知で九生あるからまた会おうと言う。

そこに浩介の人生を大事にしようという思い遣りはない様に思ったんです。

猫だから。動物だから。短絡的に自分の欲求を満たすことのみで生きているから。

ファンタジーの世界ではたいてい主人公は変わり種。

屋敷に集う他の猫が普通の猫の本能(食う、寝る、遊ぶ&平和に過ごす)を満たしたいと言うのに対して、浩介に恋をし、その恋心を満たそうとしたのは真緒が変わり種だったから。つまり恋することは変わり種・真緒の本能だったのかもしれない。

浩介には辛い顔や悲しい顔は見せないなど、浩介が笑ってくれると嬉しいという気持ちはあっただろうけど、それは決して浩介の為ではなく、あくまでも真緒の自己満足な気がして。

せっかく大好きな浩介と居られるんだから、楽しく過ごそう、って。

だからまた会いたいって言えるんだろうな、って。

仮にまた出逢っても、13年程でまた記憶は消えて、残される浩介がまた辛く悲しい思いを経験しなければならないわけですよね?

いくら浩介がまた真緒といる事を願ったとしても、それってどうなの?って。

…という風に捉えていました。

そういう風に捉えたら、やっぱり浩介が不憫で。

(あくまでも私による一つの解釈です。違う意見も当然あると思います。)

原作の真緒は残された浩介の生活の足しになるように、お金や手紙を残したりという、「浩介の為」になる具体的な行動があるんですが、映画ではお金という即物的なものを排除することによってファンタジーが変に泥臭くならないばかりか、真緒が自分の恋心のみに基いて行動する部分をより強調させ、真緒の浩介への恋心の強さの描写としてこれ以上のものはないように仕上がっています。

そして原作にある、真緒が大学時代からずっと計画的に浩介を探していたというエピソードを一切排除することによって、映画の真緒のとにかく純粋で打算的なところが欠片もない元・猫という設定に納得が行くんだろうな、と。

猫だから、気ままで、気まぐれで、己の欲求に忠実で、自己中なのも仕方がないことなんだよ!と自分を納得させたので、自己中な真緒を嫌いになったりはしていません。

自己中、自己中とはいえ、シュウくんを助けるために身バレすることに躊躇することなくベランダからダイブしたのは明らかに他人の為なんですよね。

うーん…。

ま、そもそも当事者である浩介が、己の欲求にままにペットのブライアン食っちゃう真緒を受け入れてるんですもの。笑

まるっと受け入れるしかないですよねー、やっぱり。

打算がなく純粋ゆえ、と言えば

「偶然なんてないよ」

は、原作の真緒の行動を知っていると「そうなるように画策したんだから必然」であり、

映画の真緒にしてみれば「純粋に強く思い続けた結果であり、偶然ではなく運命」なんですよね。

特典映像を観る限り、三木監督的にはラストの桜のシーンはふたりを見守ってくれた陽だまりファンへの贈物的感覚のようですね。

それぞれの解釈に委ねるとは仰いますが…。

真緒に瓜ふたつな女の子が首からリング下げてるとか、「浩介が本当に忘れてるのかも分からないよね」とか…。

輪っかが閉じないのがハッピーエンド!と信じて疑わない感じね。苦笑

でも私は。

奇跡のハッピーエンドであるならば。

真緒側の願望を埋めるだけではなく、真緒を受け入れることで浩介に何が残るのかも考えて欲しいと思うのです。

真緒の強い「好き」という想いに動かされて浩介は自信をつけ、真緒が去った後は以前と比べてちょっとだけいい男に変貌を遂げていました。

ふたりで過ごした時間は確実に双方に幸せをもたらした訳ですし、そういった「利点」を別にしても真緒の存在意義を否定はしません。

それこそ「人間なら無駄なこともしなくちゃね」だし。

ただ私としては、真緒とのことを忘れることで浩介には別の誰かとの未来も可能になったのに、それをわざわざ束縛してまた繋がり続ける輪に取り込もうとすることが、本当の意味でのハッピーエンドに成り得るのかな?と疑問に思うのです。

なぜなら、浩介には、うっすらと、何かは覚えてないけど幸せだったなあ、じゃなくて確固たる記憶と経験を持って幸せだったと言える人生を送って欲しいから。

真緒にがんじがらめになって気付いたら空っぽの記憶で、それで浩介は幸せと言えるのか?それを奇跡のハッピーエンドと呼べるのか?…って思ってしまうのです。

残された側を次に進ませてあげるのも去る者の愛情だよな、と思うのは、私が残された側の立場だからかもしれません。

だからあのバーのシーンで浩介が涙して、次に進めることを暗示させてのハッピーエンドで良かったと思うのです。

しかしながら、桜の中でのあのシーンがあるのならば、輪っかがまた繋がることの示唆であり、それもまたハッピーエンドなのでしょう。

それでも。

奇跡のハッピーエンドというのなら。

この次は十数年後にまた消えなければならない運命は断ち切った形で戻って来て欲しい、と願わずにはいられません。

真緒も、記憶も、ずっと消えることなくあって欲しいと思うのです。