松本潤担ブログ @ニューヨーク830番地

遠くても。同じ空の下、繋がってるよ、とあなたが言ってくれるから。

「僕は妹に恋をする」見直し週間 その2

僕妹の感想の 続きです。

今日は少し演技以外の部分にも触れたいと思います。

まず、原作が人気少女漫画とはいえどもこのような禁忌を扱った作品のオファーを貰って、こういう役というか脚 本を面白い、演りたい、って思う潤くんの感性が素晴らしいと思います。色んな意味でチャレンジャーだなぁ、と。

潤くんは本当に文学的読解力に長けていて、脚本を読んだだけで 作品の意図とか、どこに重点が置かれて何が大事なのかということを直ぐ様察知していると、当時の雑誌のインタビューなどを読んでそう思いました。

この作品の造りはすごく詩に似 ていて、とても余白部分が多いです。 色々なことを観る者の想像力に委ねてあるので、演じる人はこちらの想像力を駆り立てるような余韻のある芝居をしなければならず、 それは実はとても難しいことです。

人の想像力を駆り立てるには、演じる人が脚本を読んだ時点で観客以上の想像力で物語の世界観を把握して、さらにそれを演技によって表現できているかという二点がとても重要だから。 ト書きにある動作をただ漫然としただけでは伝わるもののボリュームが桁違いに変わってくるのです。

でも松本潤という人はその辺がとても上手い。 それは彼の演じた役について「今頃どうしてるかな…?」と、何年経ってもその後に思いを馳せることが出来るということがその証拠だと思います。考えませんか?慎はアフリ カでどんな風に過ごしていたのかな。伴ちゃんはイタリアで修行してそろそろ帰って来たかな。ビトは…大雅は…って。

漫画原作のように絵としてイメージが既に固定されがちな作品に おいても、潤くんは作品の世界観と役のイメージを的確に掴んで、しかしかといってその枠に填るのではなく、自らの解釈を加えつつその役を演じています。 潤くんの演技は、その役の根っ子の部分はそのままにイメージを膨らませて、最終的にはその役がハマっているとまで言わしめる説得力を持っているんですね。 だから絵の頼とは似つかない潤くんが、原作者 の先生に「頼が居る」、「松本さんに演じてもらえてよかった」とまで言って貰えるんです。

ただ潤くんが把握した世界観は潤くん的見解だし、潤くんは決して独りよがりな演者ではないので、 だからこそ監督と相談することがたくさんあるんですよね。 自分の直感と監督の意図や周りの意見との摺り合わせをして、チームとして作品を作りたいんでしょう。



メイキング映像の潤くんが、一生懸命に共演者やスタッフを盛り上げている姿を見て、その健気さに心が震えました。当時まだ23歳?嵐では一番下だし、なんとなく永遠の末っ子気質のあの子が、あんなに頑張って座長として仕事してるっていうのがね、なんか後ろから羽交い締めにして頭撫でくり回してやりたくなります。

あと潤くんったら、原作者の先生に似顔絵の色紙をプレゼントされて、まぁーにっこにこるんるんしちゃって、ほんっとうに嬉しそう! あなたは原作ファンの女子ですか!笑。ってツッコミいれたくなるくらい。 隣にいる共演者の色紙を覗 きこんだり、自分のを見なおしたり。ウッキウキ。 こんなに喜びを表現してくれたら贈り甲斐もあるってもんですよね〜。 素直で可愛らしい。リターンズでドS俺様キャラ売りが本格的になる前の束の間のエンジェル潤タイム。笑

まぁ、榮倉ちゃんにヒップホップをムチャぶりしたりのツンデレっぷりは健在でしたけどね。

私はこの原作コミックを読んだことがないのですが、潤くんのイン タビューを読むと全10巻のストーリーからかなりの部分が削ぎ落とされ、しっとりと詩的に洗練された脚本になったのかな…と思います。今更だけど原作を読んでみたいかも。

監督が 榮倉ちゃんに「演技しないでほしい」と言ったり、潤くんにも「気持ちが動くまでセリフを言わないでいい」と言ったり、随分と感情の揺きを大事に撮る監督さんなのだなぁ、と思いました 。確かにセリフを言うところだからセリフを言っているみたいな感じはありませんでしたね。

映像的にも綺麗だな、と思ったのが引きで撮った立膝&片足投げ出して座る頼の姿と、水族館のシーン。

この水槽前のシーンは作品の核となる設定の象徴的アイテムだと思います。

郁は水槽(=逃れられない現実)の中で泳ぐイルカ。一見美しい世界で 自由に泳いでいるようで、でもそこからは逃げることは出来ません。ですが、そんなに居心地が悪い訳でもないのは、郁のただ純粋に一途に頼を思う綺麗な気持ちがあるからでしょうか。

イルカのように半分だけ眠った脳でずっと夢を見ていたい。頼とのことは叶わぬ夢であると現実を把握しつつも、敢えて今の状況に浮遊していたい。現実が把握出来ている分、郁は頼よりも ずっと大人です。

うっすらと微笑むように見える郁と、水槽に写ったすこし苦しそうな郁の対照的な表情を見せるあたり、すごく計算された画だなぁと思います。半分で夢見て微笑み、半分は覚醒して悲しむ。 深いですね。私が深読みし過ぎなのかもしれないけど。

もっと深読みすると、世間知らずで一途な郁は、例え禁忌を冒した後でも水槽の中で水(=洗礼、霊の浄化の象徴)に清め続けられるピュアな存在なのかなぁ…と。

だって郁ちゃん、穢れないですよね! 頼が好きという芯が一本すっと通ってて、それが全く揺るがない。ぐらんぐらん 揺らぎっぱなしの頼とは対極にいる。学校では郁がダメな子で頼がデキる子みたいだけど、中身はやっぱり女の子の方が大人なのかな。

あ、郁はイルカ、って言ったけど、そもそも見 に行ったのはラッコちゃんなんですよねー。 元々ラッコが郁に似てるっぽいってことだったんですよね?え、ちがう? お土産もペアのラッコちゃんなんですよねー。 リアルなラッコちゃんはどこにも出 てこなかったけど。爆! 

僕妹は心の余裕がある時にリラックスして観ると、その都度抱く感想が変わってくる気がします。ただかっこ良くて美しい潤くんを眺めるだけに観るんでも全然構わないんだけど、それだとちょっと勿体無いかな。